八重が刻んだ「足跡」。新島八重や会津藩を激動の渦に巻き込んだ戊辰戦争。その戦争について紹介します。

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戊辰戦争を辿る

慶応4年(1868年):会津戦争の流れ

戊辰戦争前夜

孝明天皇に忠誠を尽くしていた会津藩でしたが、時代の波にのまれ、いつしか「朝敵」に。そして、「鳥羽伏見の戦い」へと突き進んでいきます。

白河口の戦い(4月~7月)

南東北の要地白河城をめぐる、奥羽越列藩同盟軍(仙台藩・会津藩・旧幕府歩兵隊・米沢藩・棚倉藩など)と新政府軍との戦い。白河城を占拠された同盟軍は7回に渡り攻撃するが、白河城奪取には至らなかった。
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大壇口の戦い(7月29日)

新政府軍と二本松軍が繰り広げた二本松での攻防戦の一つ。多くの二本松兵が白河口に出兵していたため、木村銃太郎率いる少年隊も出陣。この戦いは大人と子どもの戦いのようなものであり、2時間ほどで終焉を迎えた。

母成峠の戦い(8月21日)

会津藩境の母成峠(現・郡山市、猪苗代町)を守る同盟軍と新政府軍との戦い。新政府軍・伊地知正治は、主要街道の中山峠を回避し守備の手薄な母成峠を選択。兵力及び兵器で劣る同盟軍は新政府軍に破られる。

十六橋の戦い(8月22日)

新政府軍の会津若松城下への侵攻を阻止するため、会津軍は十六橋を破壊。しかし、新政府軍の進軍は早く、ここで会津軍と新政府軍との攻防戦が始まる。旧式の銃で戦う会津軍は新政府軍に押され退却を余儀なくされた。

戸ノ口原の戦い(8月23日)

同盟軍と十六橋を破った新政府軍との戦い。新政府軍側に続々と援軍が到着し、同盟軍は多くの死傷者を出し退却。ともに戦っていた白虎士中二番隊は鶴ヶ城へ向かう途中の飯盛山で、砲撃の音や火の手が上がっているのを見て鶴ヶ城が落ちたと錯覚し、自刃。
» 滝沢峠

鶴ヶ城籠城戦(8月23日)

守備が手薄だった母成峠を攻められ、新政府軍の猛攻を防げなかった同盟軍。とうとう城下へ侵入されると、籠城戦を開始。約1カ月にも及ぶ戦いは、男女の別なく老いも若きもあげての総力戦に。
»  会津唐人凧

一ノ堰の戦い(9月15日~9月17日)

会津戦争終盤の激戦。籠城戦での兵糧を運ぶ補給路を確保するため、寄合白虎隊を含む会津軍の精鋭たちが新政府軍と激戦を繰り広げた。最初は互角に戦うも、隊長クラスの人物が多数死傷。その後の作戦遂行に多大な影響を及ぼし、敗れた会津軍は兵糧補給路を断たれた。

鶴ヶ城開城(9月22日)

9月に入ると頼みとしていた米沢藩をはじめとする同盟諸藩の降伏が相次ぐ。米沢藩は明治新政府より「会津藩へ降伏を勧め、従わない場合は討伐すること」と強要されており、会津藩へ降伏を勧めた。日に日に増える負傷者や、新政府軍による強奪、無罪の民の殺戮、婦女への乱暴などの残虐行為を憂慮した藩主・松平容保は、慶応4(1868)年9月22日、白旗をあげ開城した。

戊辰戦争マップ

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