八重が刻んだ「足跡」。新島八重や会津藩を激動の渦に巻き込んだ戊辰戦争。その戦争について紹介します。

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母成(ぼなり)峠の戦い

戊辰戦争激戦の地

母成峠の戦い

古戦場碑の場所からは、かつての戦場である高原を見渡すことができます。

猪苗代町の中ノ沢温泉と、郡山市の磐梯熱海を結ぶ母成グリーンラインの最高部を母成峠といいます。「母成峠の戦い」という戊辰戦争において重要な戦いがあった場所です。

二本松藩との戦いを制した新政府軍は、次の作戦を練っていました。江戸の大総督府の参謀・大村益次郎は、「枝葉(会津藩を除く奥羽越列藩同盟諸藩)を刈って、根元(会津藩)を枯らす」仙台・米沢への進攻を指示。しかし、二本松にいる参謀・板垣退助と伊地知正治は「根元を刈って、枝葉を枯らす」会津攻めを提案しました。不慣れな雪国を攻略するにはリスクが高すぎると判断したからです。また、国境警備で会津藩内が手薄になっていたことが好機と考えられました。結果、冬の到来の前に根元を刈る会津への進軍が選ばれました。

一方旧幕府軍は、会津西街道(日光口)や勢至堂峠(白河口)、そして二本松と若松を最短で結ぶ中山峠(二本松口)といった主要ルートに兵を配置。新政府軍からの攻撃に備えました。板垣退助ら新政府軍は、旧幕府軍の裏をかこうと中山峠に陽動部隊800を先に派遣し、母成峠に集結することになります。

慶応4(1868)年8月21日、会津に突入しようとする新政府軍約3000、これを阻止しようとする旧幕府軍約800が衝突します。戦いは濃霧の中終日行われました。要所を守ろうと、旧幕府軍が耐えますが、圧倒的に兵士の数が足りません。結果、数や武器に勝る新政府軍に押され、旧幕府軍が敗走しました。会津攻めに勢いをつかせたことから、重要な戦いのひとつといわれています。

現在は、峠に古戦場碑や慰霊碑があり、紅葉や牧場、ふくしまの水三十選にも選ばれている名瀑「銚子ヶ滝」など、安達太良連峰の心和む景観が広がります。ドライブをしながら景色を楽しめ、家族に人気のスポットです。

母成峠の戦い

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