八重が刻んだ「足跡」。新島八重や会津藩を激動の渦に巻き込んだ戊辰戦争。その戦争について紹介します。

HOME » ふくしまと八重 八重が刻んだ「足跡」 » 一ノ堰の戦い

一ノ堰の戦い(会津若松市)

会津戊辰戦争・終盤 八重の父はここで散る

山本権八の墓

八重の父・山本権八の墓は一ノ堰にある光明寺に。隣には共に戦った玄武隊の墓も。

一ノ堰は会津での戊辰戦争終盤の激戦地。鶴ヶ城への兵站(兵糧などの補給)を確保するため会津藩士の精鋭が新政府軍と戦った場所です。八重の父・山本権八もこの地で戦死しました。

会津藩の一瀬要人と萱野権兵衛らに率いられた部隊は、喜多方の熊倉付近で新政府軍に勝利したのち、城南方面に転戦してきました。会津藩士の有力部隊が鶴ヶ城の南に集結しているとは知らない新政府軍の諸隊は、城南の各村々を占領して鶴ヶ城内への兵糧補給路を絶とうとします。両軍は鶴ヶ城の南数キロの所で遭遇し、戦闘が開始されました。

序盤は会津軍が優勢でしたが、新政府軍は後方に援軍を要請。それに対抗して、今度は会津軍が応援を呼び背後から城兵が出撃するといった具合で両軍互角の戦いのうちに日没となりました。この日の勝利は会津軍だったといわれています。
しかし、勝ったとはいえ、会津軍では主将の一瀬要人をはじめとした隊長クラスの人物が多数戦死し、有力幹部も負傷。統率力や戦力を大きく失い、その後の作戦遂行に多大な影響を及ぼしました。

新政府軍にとって、城南にいる会津軍をこのまま見過ごすことはできませんでした。新政府軍は一ノ堰に陣取っていた会津軍を西側と北側から攻撃。会津軍は退却を余儀なくされましたが、両道から合流した新政府軍が戦闘隊形をとらないうちに反撃を開始。会津軍は砲を平地と山上から射撃し、新政府軍の前進を阻みます。
しかし、逆襲には成功したものの、戦力に余裕のない会津軍はその日の夕刻のうちに大川を渡り、本郷方面に引き上げました。新政府軍も追撃せず引き上げましたが、城下周辺の会津軍は一掃され兵糧通は遮断、鶴ヶ城は完全に包囲されました。

こうして、舞台はとうとう籠城戦へ・・・。

一ノ堰の戦い

福島県観光交流局観光交流課
TEL.024-521-7398/FAX.024-521-7888