八重が刻んだ「足跡」。新島八重や会津藩を激動の渦に巻き込んだ戊辰戦争。その戦争について紹介します。

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白河口の戦い

白河の地に多くの魂が散った 約100日間にわたる攻防戦

白河口の戦い

白河口の戦いの激戦地、稲荷山にある西郷頼母の碑から眺める白河。現在は住宅やお店が立ち並びますが、進軍してくる敵の様子がわかります。

鳥羽・伏見の戦いを発端として起こった戊辰戦争。白河口の戦いは慶応4(1868)年、閏4月から7月(6月から8月)にかけて起こった、白河城をめぐる会津藩・仙台藩を中心とした奥羽列藩同盟と、薩摩藩・長州藩を中心とした新政府軍との戦いです。

戊辰戦争以前の文久2(1862)年、会津藩主であった松平容保は京都守護職に任命され、尊王攘夷派志士の取り締まりや禁門の変において江戸幕府の中心となって動いていました。そのため会津藩は、薩摩藩・長州藩を中心とした新政府に幕府側の首謀者とされ、鳥羽・伏見の戦いの後、慶応4(1868)年に新政府から追討令を受けます。
追討を命じられた仙台藩、米沢藩などの東北諸藩は会津藩に同情的で、会津藩などの赦免嘆願のため、奥羽列藩同盟を結成します。同盟側は会議を開き、新政府の九条総督に赦免嘆願書を提出しましたが認められず、朝廷へ直接建白(太政官建白書)を行いますが、これも認められることはありませんでした。

会津藩が新政府の通達に対して罪を認めず謝罪を拒否する回答書を示した事と、仙台藩士が新政府の鎮撫使(ちんぶし・諸国の治安の巡察、国司などの監察役)である世良修蔵を殺害した事件から戦争へと発展することとなります。
白河は、新政府軍が会津へ進攻するための奥州街道の要。なんとしても同盟軍はここを突破させるわけにはいきませんでした。

当時の白河城は、藩主不在の幕府直轄領でした。それまでこの地を治めていた阿部正外(あべまさとう)が、幕府の老中在職時の慶応元(1865)年、イギリス・フランス・オランダの要請であった兵庫開港・大坂開市を無勅許で認めたことを違勅として咎められ、老中職から解任されたためです。正外は慶応2(1866)年棚倉藩へ転封され、白河城は二本松藩が守備することになります。そして、新政府樹立時には仙台藩が駐屯していました。

白河口の戦い

新選組が宿営した脇本陣・柳屋旅館跡(個人宅のため、通常内部非公開:外観のみ見学可)

仙台藩は奥羽列藩同盟に加盟していたため、慶応4(1868)年閏4月20日、会津藩がこの要所を確保するため進軍してくると、白河城を会津藩に明け渡します。22日、白河城守護の命を受けた新選組隊長・山口二郎〔斎藤一〕が約130名の隊員を率いて合流。新政府軍を迎え撃つため防御を固めました。宇都宮城の戦いに勝利した新政府軍は、白河城が占拠されたとの報を受けると、そのまま白河へ進軍を続け、25日に白坂宿へ奇襲作戦に出ます。しかし、防御を固めた新選組をはじめとする会津藩に撃退され退却しました。

翌26日に、白河口の総督として会津藩家老・西郷頼母(さいごうたのも)、副総督として会津藩若年寄・横山主税(よこやまちから)が白河城に入城しました。また、仙台藩、棚倉藩、二本松藩の増援部隊も到着。着々と戦力を増強していきました。新政府軍も呼応して増員し、その兵力は、同盟軍約2,500人、新政府軍約700人になったと言われています。

5月1日、兵力で劣る新政府軍は、策を練り兵力を3隊に分け、白河城へと進攻を開始します。本隊は正面より攻撃、他の2部隊は左右から回りこみ、同盟軍の退路を断つ形で包囲攻撃する作戦をとりました。本隊は奥州街道を進んで小丸山を占拠し、正面から稲荷山の同盟軍を総攻撃するように見せかけ、陽動作戦に出ます。その間、他の2部隊が、稲荷山に兵が集中し手薄になった雷神山と立石山を、棚倉街道と原方街道から迂回し占拠。新政府軍は稲荷山を包囲する形で銃撃を加え、さらに城下へと突入し白河城を占拠しました。
この激しい戦いで同盟軍は多くの死傷者を出しましたが、巧みな戦術と新型の洋銃を用いた新政府軍は犠牲者も少なく、同盟軍の惨敗でした。白河城の陥落は、同盟軍に大変な衝撃を与えました。

白河城陥落後、同盟軍・新政府軍ともに兵を増強させますが、新政府軍には板垣退助率いる土佐藩兵などが応援に駆けつけていました。新政府軍は、その他にも平潟(茨城県北茨城市平潟町)から兵を上陸させ、白河城に駐留していた板垣退助率いる部隊と棚倉城へと進攻します。
同盟軍は、新政府軍の動きを予測していましたが、白河城奪還の好機とみて白河へ兵を集結させ、棚倉藩への増援は行いませんでした。棚倉城はその日のうちに落城し、降伏。同盟軍は白河城へ進攻しますが失敗に終わります。その後も攻撃を繰り返しますが、白河城奪還には至りませんでした。7月14日の白河城への攻撃を最後に、白河以北の地が新政府軍の支配下に置かれていくと、同盟軍は白河周辺から撤退し、白河口の戦いは集結しました。
白河が落城したことにより、白河城へと援軍していた二本松城・棚倉城は兵力の薄いところをつかれ敗戦。二本松少年隊・白虎隊の悲劇へとつながっていきます。

この戦いで戊辰戦争の大勢は決したといわれています。明治新政府が明治元年と改元したのは1868年9月8日。鶴ヶ城が開城されたのは9月22日。奥州街道の要を落とした新政府は、鶴ヶ城落城前に、この戦いは終わったと判断したのでした。

白河口の戦い

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