八重が刻んだ「足跡」。新島八重や会津藩を激動の渦に巻き込んだ戊辰戦争。その戦争について紹介します。

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戊辰戦争前夜

孝明天皇に忠誠を尽くしていた会津藩 時代の波にのまれ、いつしか「朝敵」に

「鳥羽伏見の戦い」の跡地

戊辰戦争の幕開けとなった「鳥羽伏見の戦い」の跡地。

戊辰戦争に散った、ある会津女性の遺品を見せてもらったことがあります。彼女が敵の銃弾に倒れる寸前まで握りしめていたのは、柄の長さ約160㎝、刀の長さ約45㎝の薙刀。この時、文献の中でしか知らなかった戊辰戦争を、実際に起こったものとして初めて実感しました。今から約150年前、確かにこの地で戦争があったのです。

幕末の世、尊皇攘夷派浪士による暗殺が相次ぐなど、不穏な状況に陥っていた京都。それまで京都の治安を守っていた京都所司代では抑えきれず、幕府は京都守護職の設置を決めました。その候補としていくつかの藩の名前があがった中で、最終的に会津藩に白羽の矢が立ちます。藩主・容保は、適任でないと何度も辞退を申し出ましたが、藩祖・保科正之が残した「我家は宗家(徳川家)と盛衰存亡を共にせよ」という家訓をたてに迫られると、ついに守護職を受諾しました。

文久2(1862)年、容保は1000人の藩士を引き連れて京都へ向かい、黒谷金戒光明寺に本陣を構えます。翌年には、近藤勇ら浪士組が会津藩預かりとなり、後に新撰組の隊名が下されました。新撰組を指揮して京の治安を守る容保を、深く信頼していた孝明天皇は、極秘に「全く其の方の忠誠、深く感悦の余り、右一箱これを遣わす」というご宸翰(しんかん:天皇がかいた文)と御製(ぎょせい:天皇の作った和歌、詩文)を下賜しました。

しかし慶応2(1866)年、孝明天皇が急死すると政情は一変。朝廷内では倒幕派の攻勢が強まりました。翌年、幕藩体制の限界を悟った第15代将軍・徳川慶喜は、朝廷に大政を奉還します。その後、明治天皇の名において「王政復古の大号令」が発せられ、慶喜の「官位はく奪」と「領地返上」が強引に決定されました。

慶応3(1867)年12月、江戸城二の丸放火事件などの薩摩藩による挑発行為に報復するため、旧幕府は江戸薩摩藩邸に放火。これにより薩摩藩に戦闘開始の口実ができ、一方の旧幕府も薩摩を討つ必要性に迫られました。

慶応4(1868)年1月3日、旧幕府軍は、薩長率いる新政府軍を討つために京都へ進軍。鳥羽・伏見で交戦となりますが、最新の武器を駆使した新政府軍に大敗します。八重の弟・三郎も参戦しましたが、敵の銃撃を受け負傷。海路で江戸へ逃れましたが、芝新銀座の藩邸で死去しました。

旧幕府軍が総崩れとなった6日深夜、徳川慶喜は側近を伴い、大阪城を脱出して江戸城へ逃亡。4月11日、江戸城は無血開城され、徳川300年の歴史は幕を閉じました。そして新政府との恭順を決めた慶喜は、長州に敵視されていた容保を江戸から追放。孝明天皇に忠誠を尽くしていた容保が「朝敵」とされたのです。

失意の会津藩は、江戸を引き上げ会津に帰りました。容保は恭順の意を表して、何度も新政府に嘆願書を提出しましたが、これらはいずれも受け入れられませんでした。それどころか、新政府は会津藩を「賊軍」とみなして討伐令を発したのです。さらに5月、新政府軍は奥州に総攻撃を開始。白河をはじめとして、福島県内各地では激しい戦闘が繰り広げられることとになりました。

戊辰戦争マップ

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