八重が刻んだ「足跡」。新島八重や会津藩を激動の渦に巻き込んだ戊辰戦争。その戦争について紹介します。

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中野竹子

娘子軍として先頭で戦い、文武に優れた会津女子

中野竹子像

殉節之地碑付近にある中野竹子像

弘化4(1847)年3月、中野平内・こう子夫妻の長女として、江戸城和田倉門内の会津藩上屋敷内に生を受けました。幼いころから聡明であったと伝えられており、5歳で百人一首を暗唱したという逸話が残っています。さらに書や和歌にも優れていて、藩の賞典を何度も受けました。また、武芸にも通じており、7歳ごろに薙刀指南役を勤めた赤岡大助に弟子入りしました。その腕前は免許皆伝の域に達するほど。文武に優れた典型的な会津女子として、将来を期待されていました。

慶応3(1867)年、徳川慶喜が大政を奉還すると、会津藩は江戸にあった屋敷を引き払い、その時に竹子も会津へ戻りました。その後は、会津坂下にある赤岡の道場に身を寄せて、近所の子どもたちに字を教えたり、薙刀の稽古をしていたと伝わっています。

戊辰戦争の際には、女性だけで結成された「娘子軍」として奮戦しますが、神指町黒川の柳橋付近で戦死。享年22歳という若さでした。墓は会津坂下町の法界寺にあり、寺には竹子が戊辰戦争の際に使用した柄の長さ1.6m、刃渡り45㎝の薙刀や遺墨などが残されています。

昭和13(1938)年には、戦死した柳橋近くの湯川端に、「中野竹子殉節之地」碑が建碑されました。

殉節之地碑

所在地

福島県会津若松市神指町大字黒川街道西250付近

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