八重が刻んだ「足跡」。新島八重や会津藩を激動の渦に巻き込んだ戊辰戦争。その戦争について紹介します。

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野澤雞一(のざわ けいいち)

覚馬の建白書『管見』を口述筆記 様々な知識を吸収し法律家として活躍

野澤雞一(のざわ けいいち)

野澤雞一肖像(於:ニューヨーク)

嘉永5(1850)年、野沢原町村(現、西会津町)に生まれ、慶応2(1866)年、研幾堂に入塾。石川暎作(アダム・スミス『富国論』を翻訳)の従兄にあたる。16歳の誕生日を迎えた慶応3(1867)年、長崎で医学の勉強を志し、少しの旅費と米を携え故郷野沢を旅立ちます。途中、会津藩主・松平容保が京都守護職を命じられ、一緒に京都に同行していた会津藩士である義兄・小林源次郎(後に篠原新八と改名)の元を訪ねました。そこで、京都にも山本覚馬が藩主に願い出て作った藩の洋学校があり勉強できること、京都市内を警備する会津藩士が人手不足で人材を募っていることを義兄から聞きます。山本家の遠縁にあたる義兄の推薦と会津藩の肝煎(名主・庄屋)の子弟ということもあり、雞一は臨時藩士に採用され京都に留まることにしました。

しかし翌慶応4(1868)年、鳥羽・伏見の戦いが始まり、大阪にいる藩主の元に駆けつけようと身支度し、途中の淀で朝敵の片割れとして薩摩藩兵に捕らわれ、京都薩摩藩邸(現、同志社大学)に幽閉されてしまいます。一緒に捕らわれた覚馬は、眼病が進みほとんど視力を失い、さらに脊髄を病んで歩行も困難となっていました。幽閉中、覚馬は将来の日本のあるべき姿を論じた建白書『管見』を雞一に口述筆記させました。この『管見』は新政府宛に出され、三権分立や税制改革など22項目にわたり的確に触れてあり、政府の重鎮岩倉具視や西郷隆盛も敬服せざるを得ない優れた内容でした。この時まだ17歳だった雞一がこれ程の大儀を成し遂げられたのは、研幾堂や京都の藩洋学所で受けた高い教育によるものであったと思われます。

野澤雞一(のざわ けいいち)

古くからある蔵を改装してオープンしたふるさと自慢館

その後、雞一は明治天皇即位と改元の大赦により釈放されました。師の壮大な考えに触れた雞一は見聞を広めるため、明治3(1870)年、大阪開成所(現、京都大学法学部・文学部)入学。さらに翌明治4(1871)年、脩文館(現、横浜国立大学)に入学し、教頭だった星亨(第2代衆議院議長・逓信大臣・東京市議会議長)と親しくなって英語や法律を学びます。その間に『英国法律全書』を星と共に翻訳し、日本の法整備や法律を学ぶ学生・教育者にとって大いなる助けとなりました。同年暮れ、星の推薦で大蔵省に入り、横浜税関職員・新潟税関長代理を歴任します。

明治7(1874)年には弁護士に転身し、日本だけでは見識が狭くなると考え、アメリカ・エール大学で法律学を学びます。帰国後、星の義妹と結婚。星の政治的・経済的な活動を影で支え、特に明治15(1882)年の自由民権運動「福島・喜多方事件」では星と一緒に現地を訪れるなど、積極的な弁護活動や地元支援者の援助に活躍しました。明治22(1889)年、再渡米し、ニューヘーべン法科大学で学びます。帰国後、神戸地裁判事を経て公証人となり、銀座に公証人事務所(役場)を設けました。

野澤雞一(のざわ けいいち)

ふるさと自慢館内にある野澤雞一他の人物紹介の展示風景

多くの良き師、人々との出会いを得て、常に向上心を持って学び英学の道を選んだ野澤雞一。覚馬の建白書『管見』を口述筆記し、明治新政府にその意見を伝える一助になったこと、『英国法律全書』・『海外万国偉績叢伝』他の翻訳、銀座に公証人事務所(役場)を設けるなど、日本の文明開化に大きな足跡を残しました。

ふるさと自慢館

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