八重が刻んだ「足跡」。新島八重や会津藩を激動の渦に巻き込んだ戊辰戦争。その戦争について紹介します。

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佐川官兵衛(会津若松市他)

会津士魂を体現した、会津屈指の名将

佐川官兵衛顕彰碑

旧鶴ヶ城三の丸地内にある顕彰碑
西南戦争で官兵衛が戦死した熊本県南阿蘇村の大石で造られています。

佐川官兵衛は剣術、馬術と歌道に秀でた文武両道の人で、人情に厚く、その人柄で部下たちに慕われた会津藩家老です。会津藩主松平容保が京都守護職を務めた際には、京都日新館の学校奉行、容保が外出する際の警護にあたる別選組や諸生組の隊長を兼任しました。

鳥羽伏見の戦いで、薩長勢と戦った際、刀は折れ、銃弾により眼を負傷したにもかかわらず、平然と指揮を執っていたことから「鬼官兵衛」と恐れられました。その後の戊辰戦争では、軍事奉行頭取として各地を転戦します。「佐幕派強い者番付」にも部名を謳われるほどで、その指導力は容保からも高く評価されていました。材木町住吉河原での戦いでは、わずかな兵力で西軍に甚大な損害をあたえました。これは籠城戦開始後、会津藩のあげた唯一の勝利といわれているものです。

佐川官兵衛歌碑

官兵衛が勝利を収めた会津若松市材木町
秀長寺古戦場にある官兵衛の歌碑

会津藩降伏後は、斗南へ移り苦しい生活を体験したのちに会津に戻っています。明治7年(1874年)には、時の警視長川路利良に乞われ、官兵衛を慕う300名の旧藩士と共に警視庁に奉職。明治10(1877)年に西南戦争が起こると一等大警部として出征しましたが、熊本県阿蘇山中で戦死しました。

阿蘇の地で官兵衛は部下に一切の略奪、暴行を禁止、地元の人たちにはいつもにこやかな態度で接したといわれています。人々から「鬼さま」と親しみを持って呼ばれた官兵衛、会津武士の精神を死ぬまで持ち続けた質実剛健で実直な彼の人柄は、いまも多くの人々から尊敬されています。

官兵衛の歌碑

お問い合わせ:佐川官兵衛顕彰会(会津武家屋敷)

〒965-0813 福島県会津若松市東山大字石山院内1
TEL:0242-28-2525

福島県観光交流局観光交流課
TEL.024-521-7398/FAX.024-521-7888