HOME » ふくしまと八重 八重が刻んだ「足跡」 » 滝沢峠
若松城下から東に向かい、背あぶり高原の滝沢峠を通り白河方面へいたる街道として開かれたのが白河街道です。会津領主であった加藤嘉明は寛永4(1627)にそれまでの背あぶり峠を通る急峻な街道から、新たな道筋を開きました。嘉明の子明成は、(寛永9(1632)年から11(1634)年にかけて、)延べ8万人を動員して石畳道に改修。以来、大名の参勤交代、旅人の往来などに利用されて、大変賑わった街道でした。
戊辰戦争では、九代藩主・松平容保はここの麓にある会津藩御本陣(滝沢本陣)で白虎士中二番隊に出動命令を下しました。容保の警護をしていた白虎隊は、ここから滝沢峠を越えて戸ノ口原へ出陣。一夜明けて、戦いから退却する際、滝沢不動滝から戸ノ口堰の洞門を通って飯盛山に向かいました。峠の山頂付近には、会津藩士十八人の墓「戦士十八人墓」があります。