HOME » ふくしまと八重 八重が刻んだ「足跡」 » 会津唐人凧
唐人凧は、400年ほど前にオランダ商人によって、大陸から長崎へ伝えられたといわれています。その凧が、会津へと伝わった経緯は詳しく分かっていません。しかし、江戸時代にキリシタン大名だった蒲生氏郷が伝えたという説や、長崎の豪商・足立仁十郎が伝えたという説があります。仁十郎による説では、会津藩の海外貿易を一手に引き受けていた彼が、会津を訪れた際に長崎土産として持ち込んだのではないかと考えられています。
「ベロくん出し」、「日の出波」、「武者絵」、「風神」、「火伏せの竜」など、約20種を数える会津唐人凧の図柄。中でも代表的な「ベロくん出し」には、目をむきだし、大きな口から舌を出した唐人武者の兜に、鬼がかみついているという、印象的な絵が描かれています。大きさは、一般的なもので縦1m、大きなものでは縦6mにもなります。
江戸時代には合戦凧として、尾の先に刃物を仕込んで凧同士で戦わせて、相手の糸を切ったら勝ちという楽しみ方をしました。戊辰戦争時まだ少年だった井深梶之助(後の明治学院大学二代総理)は、当時をふり返って「細いわら縄の尾をつけ、空に舞いあがると鳴子がうなった。その音は実に壮快で、尾の先に刃物をつけたりしてけんかさせたものだった。凧合戦専用の勇ましい凧で、武士の子弟は、とくに唐人凧を愛した」と話しています。
また、戊辰戦争の籠城戦の際、鶴ヶ城から子どもたちが会津唐人凧を揚げていたという逸話があります。これは城が西軍に囲まれて不利な状況になった時、城内の士気を高めるため、そして西軍に「まだ余裕がある」と思わせるためでした。その勇壮な舞姿は、会津藩士の子どもたちに大変人気がありました。 毎年秋に開催される「會津唐人凧凧揚げ大会」。今も当時と変わらない勇壮な舞い姿を見ることができます。