新島八重が貫いた「誇り」。戊辰戦争後、京都に移り住んだ新島八重。彼女の後半生を彩る様々な人々とのふれあいを中心に紹介します。

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コラム:ハンサムウーマン・新島八重の生き方から学ぶもの

新島八重

洋装の八重
(写真提供/同志社大学)

人生において何らかの決断をする場合、必ずといっていいほど参考にする人物がいるのではないだろうか。それは時に家族であったり、先生であったり、はたまた有名人であったりする。戊辰戦争という混乱をのり越え、新天地・京都で活躍した「新島八重」の人生からも、学ぶものは多い。「ハンサムウーマン」と呼ばれた彼女の人生を振り返りながら、夢や目標を見失いがちな現代人に必要なことを考えていきたい。

男まさりの幼少期

八重は弘化2(1845)年、会津藩の砲術指南役・山本権八の娘として生まれた。江戸幕府が実施してきた鎖国政策を打ち破るかのように外国船がやってきたころだ。八重は13歳の時には四斗俵を肩に乗せ、何度も上げ下げするような男まさりの力持ちであった。当時女性は、おしとやかに振る舞うような時代である。“男まさりで、枠にとらわれず彼女らしく生きた”様子から、京都に行ってからの活躍を想像することができる。

戊辰戦争から京都へ

7連発のスペンサー銃を持って、籠城戦に参加した八重。彼女は、この戦いで父親の権八と弟の三郎を亡くした上、兄の覚馬も捕えられてしまう。その上、新政府軍の軍事力の前に屈し、ついには生まれ育った会津までも追われてしまう。家族と故郷を同時に失った悲しみは、何事にも代えがたいものがあるだろう。戊辰戦争を終え、多くの苦しみを味わった八重は、その思いをバネに次のステップに進むことになる。

京都 ~ハンサムウーマン~

維新後の明治4(1871)年、八重は京都府顧問となっていた兄の覚馬のもとに身をよせる。ここで、「銃から学問」へと新しい武器を手にすることになる。兄の影響で英語を学び、キリスト教も学んでいったのだ。今でこそ当たり前のように使われている英語だが、当時、英語を話せる女性などほとんどいなかった。さらに帽子や洋服を着こなし、洋装の女性として新たな一歩を踏み出した。八重が生きた時代は開国したばかりの明治初期である。彼女のバイタリティーは尊敬に値する。

明治9(1876)年、八重はアメリカ帰りの新島襄(同志社創立者)と結婚。その潔い振る舞いから、夫に「ハンサム」と称されていた。女性に対してはあまり使わない表現かもしれない。しかし、彼女の生き方は、まさにハンサムそのものである。「悪妻」と呼ばれても、夫を「ジョー」と呼び捨てにし、夫より先に車に乗った。先進的な文化を積極的に取り入れ、男女平等を実行したのだ。

籠城戦で男装して戦ったこともそうだ。また、勤め先である女紅場の補助金を得るため、知事に直談判をするなどした。愚痴も言わず精力的に動き回ったことは、実に彼女らしい。
さらに八重は、看護や茶道を通して、女性の社会的立場の向上に目を向けていた。維新後で荒廃していた女性の在り方を気にしてのことだ。周りの環境だけでなく、自分自身と向き合うことで出た答えだろう。

「新島八重」という生き方から学ぶもの

八重の人生を振り返ってみると、「男まさりで先進的な考え方」と「女性としての在り方」、このふたつが印象的である。故郷で学んだ会津魂と、京都で身につけた西洋文化を融合していった八重からも分かるように、一本筋が通った考えを持ちながらも、柔軟な対応ができることは大切なのではないだろうか。選択肢が多い現代においても、その姿勢は十分適用できるはずだ。もし八重が現在生きていたら、どのような人生を歩んだであろうか。草食系といわれる男子に喝をいれたり、茶道で女子学生に女性らしさを教えたりするのかもしれない。いずれにせよ、混沌とした時代に一石を投じてくれるに違いない。

福島県観光交流局観光交流課
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