新島八重が貫いた「誇り」。戊辰戦争後、京都に移り住んだ新島八重。彼女の後半生を彩る様々な人々とのふれあいを中心に紹介します。

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新島襄の墓碑(京都市)

同志社ゆかりの人たちが眠る 同志社人にとっての聖地

新島襄の墓碑

墓石の「新島襄之墓」の碑銘は、徳富蘇峰の依頼で勝海舟が書いたもの

新島襄が亡くなって2年後の明治25(1892)年、彼の良き理解者で共に同志社の設立に尽力した義兄・山本覚馬がこの世を去り、彼の傍らに葬られました。以降、この墓地には、新島、山本両家をはじめ、同志社にゆかりのある人たちが埋葬されました。

彼の遺体は、全線開通したばかりの東海道を列車で京都まで運ばれます。4日後の1月27日、葬儀は同志社のチャペル前で行われ、約4000人が参列しました。葬儀が終わると、生徒たちが代わる代わる新島の棺を担ぎ、東山若王子(にゃくおうじ)山頂に埋葬しました。葬列には、勝海舟の書による「彼等は世より取らんとす我等は世に与えんとす」や「自由教育 自治教会 両者併行 邦家万歳」と書かれたのぼりをなびかせながら、全校生徒が参加しました。

新島襄の墓碑

向かって左から八重の墓、襄の墓、デイヴィスの墓

「葬儀は質素に。墓標は一本の木に新島襄とだけ書く」。彼の遺言どおり、最初の墓標は簡素な木製でした。しかし、死後1年がたった明治24(1891)年1月、京都鞍馬産の自然石に、勝海舟によって書かれた碑銘を刻んだ墓碑が建立されました。

その後、昭和61(1986)年、不慮の事故で墓碑が倒壊。現存するのは3代目の墓で墓石は、アメリカ・ヴァーモント州ラットランド産の花崗岩を使用して、昭和62(1987)年に再建されました。ラットランドは、新島がアメリカ留学から帰国する際、「日本にキリスト教の学校を設立したい」と訴えた結果、多額の献金が寄せられた場所です。

新島の墓の隣には、彼を支えた妻・八重の墓、そして同志社設立に関わり山本覚馬と共に彼を助けたデイヴィスの墓があります。

新島襄の墓碑

所在地:京都市左京区鹿ケ谷若王子町

福島県観光交流局観光交流課
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