新島八重が貫いた「誇り」。戊辰戦争後、京都に移り住んだ新島八重。彼女の後半生を彩る様々な人々とのふれあいを中心に紹介します。

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襄との結婚

「私のライフは、襄のライフ」深い絆で結ばれていた八重と襄

結婚当初の八重と襄

結婚当初の八重と襄
(写真提供/同志社大学)

八重と襄が初めて出会ったのは、明治8(1875)年4月ごろ。京都に来ていた宣教師・ゴードンの借家の玄関先でした。ある日、八重が聖書を習うためにゴードンの家に行くと、同じく彼を訪れていた襄は、玄関で靴を磨いていました。八重はゴードン付の下男(ボーイ)かと思って、あいさつもしないで素通りしたといいます。その後、ゴードン夫人が「新島襄という人が来ているから」と八重に襄を紹介。これでようやく、2人の会話が始まりました。この時はまだ、お互いに意識しあうことはなかったようですが、後に襄は「真に偶然に、というより奇跡的に出会った」と話しています。

2人のキューピッドとなったのは、事実上の京都府知事だった槙村正直参事官。キリスト教の教えに基づいた学校設立のために話し合いを重ねていた襄とも、日本初の公立女学校、女紅場(女紅場)への援助を求めにきていた八重とも面識のあった人物です。話し合いの合間に、槙村と襄が結婚について話すことがありました。「夫に従うだけの妻はご免だ」という襄に、槙村は「それならふさわしい人がいる」と八重を薦めました。この時から、襄は八重のことを意識するようになったといわれています。

八重が襄の心を射止めたのは、夏のある暑い日。暑さに耐えかねた八重は、自宅の中庭に出て板戸を置いた井戸の上で縫い物をしていました。そこへ襄が覚馬を訪ねてやってきます。襄は驚きました。襄は「妹さんを注意したらどうか」と覚馬に忠告しますが「妹はどうも大胆なことをして仕方がない」という返事が返ってくるだけでした。井戸の上に座った八重に、大きな衝撃を受けた襄は、槙村の話を思い出して「もし八重が承諾するのなら婚約しようか」と考えるようになったようです。なぜ襄が、このような八重の姿に惹かれたのかは分かりませんが、2人は急速に接近し、明治8(1875)年10月15日に婚約することになります。

2人が婚約した年の11月29日、同志社英学校が開校。翌年1月2日、八重はプロテスタントとしては京都で初めて洗礼を受け、翌日宣教師・デイヴィスの司式で結婚式を挙げます。襄32歳、八重30歳でした。
八重はお手製のドレス姿。八重がいつから洋装したのかはわかっていませんが、同志社の生徒たちは「靴を履き、ドレスをまとった日本人女性を見るのは、これが初めて」と話しています。 クリスチャン夫妻の誕生を祝うために集まった人は、同志社の生徒たち、八重や覚馬の友人など、40人ほどでした。質素な式で、当日の料理は、八重手作りのクッキーだったといいます。このような式にしたのは、襄の倹約志向だけではなく「市民の反キリスト教感情を刺激したくない」という思いがあったからかもしれません。

2人はお互いを認め合い、尊重しあっていました。そんな2人のスタイルは「男女共同一致」。散歩するときはいつも一緒で、人力車を相乗りしたり、学校のチャペルで並んで座ったりしていました。とても仲のよい夫婦でした。

明治21(1888)年、八重は医師から呼ばれ、襄の余命が残りわずかであると告げられます。気丈な八重ですが、この時ばかりはさすがに涙が止まりませんでした。襄は、八重から自分の命が残り短いことを知らされると「自分はすでに神に身をささげているから、いつ召されてもかまわない。ただ、それが突然死なら、『最愛の汝』に別れを告げられないのが辛い」と話しました。
八重の献身的な看病もむなしく、明治23(1890)年1月23日、襄は「グッドバイ、また会わん」と言い残し、八重の腕の中で、その生涯を終えました。

後に八重は「私のライフは、襄のライフ」といっています。わずか14年の夫婦生活でしたが、常に寄り添い、支えあってきた2人の間には、深い絆が育まれていたのです。

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