HOME » ふくしまと八重 八重が生まれた「時代」 » 鶴ヶ城
至徳元(1384)年、葦名直盛が造った『東黒川館』が始まりといわれている会津鶴ヶ城。後に会津領主の葦名盛氏が、現在の城郭の原型となった『黒川城』に改築。その後、蒲生氏郷が本格的な天守閣を築城し、名前を『鶴ヶ城』と改めました。戊辰戦争時に、八重が自らスペンサー銃を持ち奮戦した場所でもあります。
八重が22歳の時に戊辰戦争が勃発。弟・三郎は鳥羽伏見の戦いで負傷し、江戸で亡くなりました。八重は三郎の形見の装束を身につけ、大小を腰に、スペンサー銃を肩に男装し、戦います。女の命である黒髪も邪魔になるといい、近所に住む高木時尾に切ってもらいました。この時の心情を自身の著書でこう語っています。
昼は負傷者の看護や兵糧づくりに弾丸づくり、夜は夜襲隊にまざり、場外で自ら射撃をしました。その他籠城した女性や子どもも、飛んでくる砲弾を水にぬらした布団などで消し止めるという危険な仕事に追われます。 八重や多くの藩士・領民の奮戦により鶴ヶ城は1ヶ月の間持ちこたえましたが、死傷者の続出、兵糧・武器弾薬の不足、奥羽列藩同盟のほとんどが降伏という状況に会津藩主・松平容保はついに降伏を決意。9月22日に鶴ヶ城は開城します。 城を去る前夜、八重は三の丸雑物庫の壁に「あすの夜はいづくの誰かながむらむ馴れしお城に残す月影」とかんざしで刻みました。八重の無念さ、悔しさがよく感じとれます。
お問い合わせ:会津若松市観光公社
TEL:0242-27-4005
「私は弟の敵を取らねばならぬ、私すなわち三郎だという気持で、その形見の装束を着て、一は主君のため、一は弟のため、命の限り戦う決心で、城に入りましたのでございます」(婦人世界)