八重を育てた「家族」。新島八重を育てた母、砲術を教えた兄、そして夫など、八重とその家族たちを紹介します。

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日向ユキ

旧薩摩藩士と結婚した、八重の幼なじみ

嘉永4(1851)年、会津藩士日向佐衛門・ちか夫妻の二女として、現在の会津若松市に生を受けました。八重の家の裏にある米代四ノ丁に住んでいた幼なじみで、高木時尾の祖母から一緒に裁縫を習っていました。また、白虎隊の生き残りである飯沼貞吉はいとこにあたります。

慶応4(1868)年、ユキが18歳の時に戊辰戦争が起こります。ユキは籠城しようと鶴ヶ城へと急ぎましたが、城内に入ることができず、敵の弾丸をくぐり抜け市外へと逃れました。左衛門は大町口郭門の戦いで負傷。ユキの祖母の実家である加須谷邸内の竹やぶで自刃しました。さらに兄・新太郎も飯寺の戦いで戦死。戦争が終結すると、ユキは父と兄の遺体を捜し出して、宝町にある浄光寺に埋葬しました。

その後、残った家族と共に斗南藩へ移住。苦しい生活を送った後、開拓使の手伝いのため北海道へ渡りました。明治5(1872)年、開拓使官史の内藤兼備と結婚。兼備は旧薩摩藩出身で、戊辰戦争にも従軍していました。最初は兼備の求婚を拒んだユキですが、周囲の説得や兼備の熱意にうたれ、結婚を決意。この結婚は「敵味方の確執を超えた結婚の第一号」といわれています。明治20(1887)年には、幸せに暮らしていたユキを襄・八重夫婦が訪ねています。

昭和19(1944)年に94歳で亡くなるまで、帰郷しなかったユキですが、昭和50(1975)年、孫夫婦が日向家の墓参りのため、会津を訪れています。その際、孫夫婦は、ユキが語った思い出話を、息子が書きとめたガリ版刷りの「萬年青(おもと)」を持参しました。会津女性の健気な生き方を記した貴重な資料として、現在高く評価されています。

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