HOME » ふくしまと八重 八重が学んだ「精神」 » 茶室麟閣
江戸時代、武士の嗜みのひとつとして重んじられていた茶道。会津領主・蒲生氏郷は利休七哲(千利休の高弟として名高い7人の武将)の筆頭にあげられるほどの茶人でした。天正19(1591)年、利休は豊臣秀吉の逆鱗に触れて切腹を命じられます。氏郷は、利休の茶道が途絶えるのを惜しみ、息子の少庵を会津にかくまいました。そして、徳川家康と共に「少庵召出状」を作成して、秀吉に千家復興を働きかけます。3年後、京都に戻ることを許された少庵は、利休の茶の湯を忠実に継承していきました。
少庵が2年間会津で過ごした際に、氏郷のため鶴ヶ城内に造ったと伝えられているのが「茶室麟閣」。少庵が会津を去った後も、大切に使われてきました。戊辰戦争で会津藩が敗れ、鶴ヶ城が取り壊されることになると、茶人・森川善兵衛(指月庵宗久)は貴重な茶室が失われるのを惜しみ、自宅へ移築しました。一カ月にも及ぶ籠城戦で痛んでいましたが、修復する際には形状や素材は変えなかったといわれています。
平成2(1990)年、氏郷と少庵のゆかりの茶室を後世へ伝えるために、鶴ヶ城内の元の場所へ移築、復元されました。現在は、少庵を偲んで毎月7日に月釜などのお茶会などが定期的に開催されています。八重の祖先・山本道珍は、会津藩主・保科正之に仕えた藩の茶道頭でした。会津の茶道の祖となった彼にも、きっと少庵の精神が受け継がれていたにちがいありません。