HOME » ふくしまと八重 八重が学んだ「精神」 » キリシタン塚
天正18(1590)年、キリシタン大名である蒲生氏郷によって、会津にキリスト教が伝えられました。氏郷の洗礼名は「レオ」といい、会津若松や猪苗代に教会を建てて、多くの人々をキリスト教徒へと導きました。それにより、南会津や郡山、三春、二本松、福島など、会津若松や猪苗代以外でも少しずつキリスト教が広まりました。特に会津若松では、人口の3割ほどが信者であったといわれています。
しかし江戸時代になると、幕府のキリスト教禁止令が強化されます。藩主・加藤明成(あきなり)の時代には、会津でもキリシタンの取締りが激化。寛永12(1635)年には、薬師川原の刑場で60余名が処刑されたと伝えられています。その後、この地から犠牲者のものと思われるたくさんの人骨が見つかったため、昭和37(1962)年に今のキリシタン塚が建てられました。
キリシタンの処刑が行われたのは、八重が生まれる200年ほど前のことですが、会津では隠れキリシタンたちによる信仰が続いていた地域もありました。戊辰戦争後、京都で入信する八重ですが、もしかすると会津で過ごしていた頃からキリスト教に触れていたのかもしれません。