HOME » ふくしまと八重 八重が学んだ「精神」 » これぞ会津魂! 藩主を守って散った名家老
まず、「萱野権兵衛」という名前は、個人を指す名前ではない。萱野家の家督を継いだ者が「萱野権兵衛」を名乗り、代々会津藩の重要な役割を担ってきた。ここで紹介するのは、戊辰戦争時の会津藩国家老の「萱野権兵衛(長修)」。事実上の責任者で、八重が共に戦ったともいえる人物である。
彼の祖先の萱野権兵衛(長則)は、伊予の加藤嘉明に仕えた。嘉明が国替えによって会津に移った時、それに従って共に会津に移ったが、嘉明の子の明成が幕府から咎めをうけて改易除封となり、浪々の身になってしまう。しばらく一族は辛い時期を過ごしていたが、新たに会津藩主に入部した保科正之に召し抱えられる。ここから初代と数え、「萱野権野兵衛」が継がれるようになった。萱野家はこの後、家老にまで出世し幕末に大いに働いた。
戊辰戦争の終盤、筆頭家老は2人が自刃、第3席は行方不明という状況。第4席権兵衛(長修)は戦いの終わりを見届け、敗戦処理(城明渡し、藩主父子の助命嘆願など)に力を尽くした。そして、戦争責任を追及する会議で出た新政府軍の「首謀のものを出頭させるべし」という命に名乗りを上げ、会津藩における一切の戦争責任を一身に引き受けた。これは、自刃のように武士の名誉を守って死ぬことは許されない「刎首」の刑に名乗りを上げたともいえる。
権兵衛は祖先が流浪中に受けた恩を忘れていなかった。おそらく、萱野家は出世すればするほど、藩主に対する忠誠心を強めていったのだろう。萱野家代々の恩を自分が受けたものと思い、生きてきた。権兵衛にとって、困難にあたってその恩義に報いるのは当然の奉公だった。罪状はやはり刎首の処遇だったが、武士の情けを受け座敷内での切腹を許可された。その最期は、一糸乱れぬ見事な人生の幕引きだったと語り継がれている。
利を求めず、義に生きる。会津藩士の精神をここまで体現した人物はいないのではないだろうか。会津魂という言葉を説明する上で、彼のエピソードは欠かせないものである。会津に足を運んだみなさんには、ぜひ萱野家墓所を参拝していただきたい。そして、この素晴らしい会津があるのはあなたのおかげだと、語りかけてほしいのだ。