八重が学んだ「精神」。新島八重の人生・哲学を育んだ、福島の地。その精神を今に伝える名跡・文物・歴史を紹介します。

HOME » ふくしまと八重 八重が学んだ「精神」 » 海老名リン

海老名リン

会津の幼児教育・女子教育に力を尽くした女性

海老名リン

海老名リン肖像(写真)

嘉永2(1849)年、会津藩士日向新助・まつ夫妻の二女として、現在の会津若松市に生を受けたリンは、17歳の時に藩の軍事奉行である海老名季久の子・季昌と結婚します。ですが、結婚早々、季昌はパリ万国博覧会に徳川昭武の随員の一人として渡欧。帰国早々、戊辰戦争の勃発と、夫婦が共に過ごす時間は、あまりなかったようです。
ですが、リンは夫が不在の間も、妻として健気に会津にある家を守り、夫に尽くしていました。特に、負傷した父の見舞いに出かけていたため、夫が守る鶴ヶ城に籠城できなかった時は、一時は自刃を考える程だったと伝えられています。

海老名リン

会津若松市宝町の浄光寺にある海老名リン像

戦後も、夫は家老としての責務をとわれて江戸に送られ、再会できたのは3年後の明治5(1872)年でした。その後は、夫の転勤につき従い、明治19(1886)年に警視庁警部となった夫とともに上京します。キリスト教に触れたリンは、その中に日本の封建的な男尊女卑の教えとは違うものを見出し、熱心なキリスト教徒となりました。夫は入信に大反対だったそうですが、リンのキリスト教への思いは強く、東京婦人矯風会で会計や副会頭として活躍します。

ある時友人から幼稚園の経営を依頼されたリンは、幼児への教育と、その母となる女子への教育の必要性を強く感じます。そこで、夫の辞職で若松に帰ると、明治25(1892)年会津に私立若松幼稚園(現在の私立若松第一幼稚園)、明治26(1893)年に私立若松女学校(現在の福島県立葵高等学校)を創立して、会津の幼児・女子教育に大きく貢献しました。

リンと八重は、明治時代にはいると、どちらもキリスト教に入信し、そして教育に携わるようになります。会津に対する愛はあれど、それまでの女性の扱いに、どこか思うものがあったのでしょう。晩年の八重はリンと何度か会っており、手紙を交わしていたそうです。リンが創立した葵高校には、八重の書が伝えられ、保管されています。

浄光寺

福島県会津若松市宝町4−25

福島県観光交流局観光交流課
TEL.024-521-7398/FAX.024-521-7888