八重が学んだ「精神」。新島八重の人生・哲学を育んだ、福島の地。その精神を今に伝える名跡・文物・歴史を紹介します。

HOME » ふくしまと八重 八重が学んだ「精神」 » 郡長正

郡長正

幼いながらも守ろうとした「武士の誇り」「会津の誇り」

画像

未来ある若者の死は、時が流れても人々の胸を打ちます。きれいな花が今日も供えられていました。

郡長政は萱野権兵衛の次男。父が戊辰戦争の会津藩の責任を一身に背負い、切腹したことから家族は萱野姓を名乗ることが出来なくなり、母の姓「郡」を名乗りました(先祖の姓という説もあり)。

成績優秀だった長正は、選ばれて小笠原藩の育徳館に留学。学問や武道など精神鍛練に励む毎日を送っていましたが、ある日郷愁を覚えた長正は、母に会津の干し柿(みしらず柿)が食べたいという旨を手紙に書き送ります。しかし、届いた返事は次のような厳しい内容でした。

「おまえは斗南(会津藩がとりつぶされて流された青森県下北の地)へ行った人々の苦労を知っていますか。会津の武士の子が食物のことをあれこれ言い柿を送ってくれとは見下げ果てた根性です。再びこのようなことを言ってよこすならおまえは萱野権兵衛の子ではありません」

長正はショックを受けると同時に深く反省し、戒めとしてその手紙を大切に持ち歩いていましたが、ある日館内で落としてしまいます。それを拾って読んだ小笠原藩士の子弟に大衆の面前で罵られ、深く責任を感じた長正は死んで恥をそそぐと表明。そして一同の見守る中で切腹して果てました。
会津士魂を辱めたと感じた長正にとって、この出来事は『ならぬことはならぬ』という教えの中の『ならぬ』ことだったのです。

長正がこの出来事に耐え、世に出て活躍することを「雪辱を果たす」としたならば、八重のように名を馳せたのではないか・・・そう思うと残念でなりません。しかし、八重も女性ながら強い信念を持ち、自分を貫いて生きました。これはまさに会津という地が育む気高い心の表れ。この少年は、短い人生の中でもこの心が既に培われており、自分にとっての誇りを守ったのでしょう。

郡長政の墓

天寧寺

福島県会津若松市東山町石山天寧208
TEL:0242-26-3906

福島県観光交流局観光交流課
TEL.024-521-7398/FAX.024-521-7888