新島八重が貫いた「誇り」。戊辰戦争後、京都に移り住んだ新島八重。彼女の後半生を彩る様々な人々とのふれあいを中心に紹介します。

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同志社墓地(京都市)

同志社ゆかりの人たちが眠る 同志社人にとっての聖地

同志社墓地

山本覚馬の墓

新島襄が亡くなって2年後の明治25(1892)年、彼の良き理解者で共に同志社の設立に尽力した義兄・山本覚馬がこの世を去り、彼の傍らに葬られました。以降、この墓地には、新島、山本両家をはじめ、同志社にゆかりのある人たちが埋葬されました。

明治43(1910)年には、京都市との共葬墓地のうち148坪を新島・山本両家の墓地とする許可証が、新島の妻・八重に交付されます。その後、彼女が亡くなると、墓地の使用権と管理権は同志社が継承します。昭和10(1935)年、同志社の理事会で「校祖墓地を聖地として永遠に保存する」ための決議が取られ、整備が進められました。

同志社墓地

八重の墓

新島襄の傍らには、妻・八重はもちろん、覚馬と同じく襄を助け、同志社設立に尽力したアメリカン・ボードの宣教師・デイヴィス、新島の志を受け継いで同志社に終生助力を惜しまなかった徳富猪一郎(蘇峰)、覚馬・八重の父・権八と母・佐久、弟・三郎(権八と三郎は戊辰戦争で死亡)、覚馬の娘・久栄など多くの人々が眠っています。他にも、襄の志を共有した人、受け継いだ人、同志社の教育に生涯にわたって情熱を注いだ人、彼らが愛した家族など、たくさんの人たちが埋葬されています。

創立記念日の11月29日と創立者永眠の日である1月23日には、毎年この場所で、早天祈寿会(早朝の祈りのための集会)が行われています。

同志社墓地

デイヴィスの墓

同志社墓地

左から久栄、権八・佐久・三郎、覚馬の墓

同志社墓地

徳富猪一郎(蘇峰)の墓

同志社墓地

所在地:京都市左京区鹿ケ谷若王子町 同志社墓地内

福島県観光交流局観光交流課
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