八重を育てた「家族」。新島八重を育てた母、砲術を教えた兄、そして夫など、八重とその家族たちを紹介します。

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コラム/スポット

会津のおせち

新年を祝う会津のおせち。先人の智恵を受け継ぐおふくろの味

大龍寺

八重の先祖が眠る 山本家の菩提寺

新島八重を育て、支えた 山本家の人々

柔軟性と先見性に優れていた両親。エリート藩士のDNAを受け継いだ兄弟

八重の家族/近しい人々

父:山本 権八

山本覚馬・八重兄妹の父。会津藩砲術指南役で元の名は永岡繁之助。会津藩の砲術家・山本佐兵衛のひとり娘・佐久と結婚、山本家の婿養子となり、後に権八と改名。会津戦争では50歳以上の藩士で編成される玄武士中隊に所属し奮戦するも、鶴ヶ城の南、一ノ堰の戦いで戦死。享年61歳。

母:山本 佐久

八重の母親。戊辰戦争時には八重と共に鶴ヶ城に籠城する。会津藩が降伏し開城されると、八重と孫のみね(覚馬の娘)と共に覚馬を頼って京都に向かう。八重は同志社大学創立者・新島襄と結婚し、佐久も同志社女子学校が開設されたとき寮の舎監を務めるなど協力をする。1896(明治29)年、河原町の自宅にて永眠。86歳。

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佐久の肖像写真
兄:山本 覚馬

八重の兄。24歳の時には馬・槍・刀の奥儀を極めるほど武芸に優れ、また、藩校日新館の教授に任命されるほど学問にも優れていたという。禁門の変での活躍により会津藩主・松平容保に認められる。幕末の偉人たちとの交流も広く、鶴ヶ城開城後は京都に移り住み、目や足が不自由になりながらも、役職を歴任。京都の近代化に努め続けた。明治25(1892)年、65歳で没す。

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覚馬の肖像写真
弟:山本 三郎

八重の弟。慶応4(1868)年1月、鳥羽・伏見の戦いに参戦するが、淀で西軍の銃撃を受け負傷。紀州から海路で江戸へ逃れたが、芝新銀座の藩邸で死去。遺髪と形見の袴は会津へ届けられ、八重はこの袴をはいて籠城戦に臨んだ。

夫:新島 襄

天保14(1843)年1月14日、安中藩江戸屋敷で生まれる。自由の国アメリカに憧れを持っていた襄は、21歳の時にアメリカへ密航。ハーディー夫妻の援助をうけ、フィリップス・アカデミー、アーモスト大学、アンドーヴァー神学校で学ぶ。アメリカで学び精神や思想にふれるうちに、アメリカの文明を築いた精神を日本に伝えることが自分の使命だと感じ、宗教者ならびに教育者として生きることを心に決める。明治7(1874)年、日本へ帰国し、キリスト教主義の学校設立のため奔走する。明治8(1875)年、同志社英学校開校。明治9(1876)年、八重と結婚。明治23(1890)年、静養先の大磯で病状が急変し永眠(46)。

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新島 譲の肖像写真
八重の元夫:川崎尚之助

但馬出石藩医家の生まれで、有能な洋学者だった。会津藩校日新館に蘭学所が設置されたことを知り、八重の兄・覚馬を訪ね、教授を務めることに。その縁で八重と結婚したが、鶴ヶ城籠城戦に入る前に八重とは離婚する。

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斎藤一の妻:高木 時尾

八重の幼なじみ。籠城戦の際に男装して戦った八重の髪を切ったといわれている。戊辰戦争後、新撰組で有名な斎藤一の妻となった。

覚馬の娘:山本 みね

文久2(1862)年に生まれ。鶴ヶ城開城後は、八重や佐久たちと米沢に行き、後に覚馬を頼り京都へ。明治9年、祖母・佐久とともに洗礼を受ける。明治14年には結婚し、長男・平馬を出産したが、明治20年、24歳のあまりにも短い生涯を終える。

幼なじみ:日向ユキ

八重の幼なじみ。高木時尾の祖母から一緒に裁縫を習っていた。明治20(1887)年7月14日、札幌で八重と再会している。

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幼なじみ:高木 時尾

八重の幼なじみ。籠城戦の時、八重の髪を切ったと言われている。新撰組・斎藤一の妻としても知られている。

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福島県観光交流局観光交流課
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