HOME » ふくしまと八重 新島八重の軌跡「人生」
会津藩の敗戦から3年後の明治4(1871)年、26歳の八重は、京都府顧問となっていた覚馬を頼って京都へ。そこで『鉄砲』に別れを告げ、『知識』という新たな生きがいを得ます。同じ頃、覚馬の元に出入りしていた、新島襄(同志社創立者)と出会い、明治8(1875)年10月に婚約。
封建的な風潮の残る中、男女の平等を望む八重は、西洋帰りの夫を『ジョー』と呼び捨てにしました。また夫よりも先に車に乗る姿を人々に『悪妻』と罵られても、八重はまるで気にしませんでした。夫の襄はそんな彼女の生きざまを『ハンサムウーマン』と称しました。
弘化2年(1845年)
会津藩(現在の会津若松市)で父・山本権八、母・佐久の間に生まれる。
嘉永6年(1853年)
※黒船来航
慶應元年(1865年)
川崎尚之助と結婚。のち戊辰戦争の最中に離縁。
慶應3年(1867年)
※大政奉還
慶應4年(1868年)
戊辰戦争
1月:鳥羽・伏見の戦い。兄・覚馬が薩長連合軍に捕らえられる。
4月:※奥羽越列藩同盟成立
8月:重要拠点である戸ノ口原にて同盟国が敗北。鶴ヶ城での籠城戦が始まる
9月:城外の一ノ堰(いちのせき)の戦いにて父・権八が戦死。会津藩が降伏
明治2年 (1869年)
覚馬が京都府の顧問に就任。
明治4年 (1871年)
覚馬を頼って、母・佐久、姪・峰と共に京都へ。
明治8年 (1875年)
新島襄と婚約。同年、同志社英学校開校。
明治9年 (1876年)
洗礼を受け、襄とクリスチャンの結婚式を行う(京都初)。襄32歳、八重30歳。
明治23年 (1890年)
夫・襄が永眠。
明治23年 (1890年)
日本赤十字社正社員になる。以後奉仕作業に勤しむ。
明治28年 (1895年)
日清戦争の従軍記章を受け取る。
明治38年 (1905年)
日露戦争で篤志看護婦として従軍。
昭和7年 (1932年)
急性胆のう炎のため自宅で永眠。享年86歳。