HOME » ふくしまと八重 八重が学んだ「精神」
利を求めず、義に生きる。会津藩士の精神を体現した名家老「萱野権兵衛」。「萱野権兵衛」という名前は、個人を指す名前ではない。萱野家の家督を継いだ者が「萱野権兵衛」を名乗り、代々会津藩の重要な役割を担ってきた。
いつの世も、子を思う親の心は同じ。江戸時代版「女性 虎の巻」。女大学は江戸時代中期以降、女性の教育に用いられるようになった教訓書。
小さな心に宿る 会津藩士の“自覚”と“誇り”
会津藩では、6~9歳の藩士の子どもたち(男子のみ)は、「什」と呼ばれる10人前後のグループを結成。そこでの決まりを定めたものが、会津藩の子の基本「什の掟」である。
“用”と“美”を兼ね備えた伝統工芸品は会津を代表する郷土料理のベストパートナー。
土を原料とする『陶器』と石を原料とする『磁器』。いずれも製造している会津本郷焼。
徳川家への忠誠を誓った会津藩の憲法。
寛文8(1668)年、会津藩初代藩主・保科正之は、会津藩の憲法ともいえるこの家訓を制定した。
会津若松の礎を築いた文武両道の名将。近江国(現在の滋賀県)日野城主・蒲生賢秀の子として生まれた。
3代の藩主に仕え 会津伝統産業の礎を築いた名家老。会津藩の名門家老の家柄である田中家に生まれた。
幼いながらも守ろうとした「武士の誇り」「会津の誇り」
白虎隊自刃の地―飯盛山
四季折々の豊かな自然が自慢、福島を代表する名峰。会津はもとより福島を代表する名峰。会津富士とも呼ばれ日本百名山の一つとしても有名。
いにしえの荘厳な趣を今に伝える新宮熊野神社長床。
天喜3(1055)年源頼義・義家親子が「前九年の役」で陸奥征伐に赴く際、武運を祈って紀州熊野から勧請創建したのが始まりと伝えられている。
西方浄土へ安楽往生が叶う 会津ころり三観音のひとつ。観音堂は、 全国でも珍しい「東西向拝口・三方開き」の構造で、東口から入り、鳥追観音に祈願した後、戻らずに西口から出るようになっている。
会津仏教文化発祥の地 復元された中門・金堂は必見!平安時代の初め800年ごろ、奈良の僧・徳一によって磐梯山を望む山の麓に開かれた。
1200年、立ち続ける“ころり”観音。会津三十三観音の31番札所であり、中田観音(会津美里町)、鳥追観音(西会津町)と並ぶ「会津ころり三観音」のひとつ。
千利休の息子・少庵が会津に残した茶室。少庵が2年間会津で過ごした際に、氏郷のため鶴ヶ城内に造ったと伝えられている。
会津松平家の歴代藩主が眠る広大な史跡。「会津藩主松平家墓所」とは、会津松平家初代・保科正之が眠る猪苗代町見禰山の「土津神社」と会津若松市の「院内御廟」2カ所の総称。
“眼病に霊験あらたか”と伝えられている不動明王。両堂不動尊は、太子堂と不動堂と2つのお堂があったため、古くからそう呼ばれており、北会津町両堂の地名もこの二つの堂に由来している。
新年を祝う会津の伝統民芸
会津のキリシタン弾圧を今に伝える場所
「会津」の地名と共に生まれたという伝説あり
会津を見守り続けるやさしいまなざし
会津人の誇りここにあり!豊かな自然が生んだ魂
会津の礎を築いた初代藩主・保科正之の眠る場所
極楽浄土を願う人々の心が生み出した、世界的にも珍しい2重らせんの建物
会津の薬学の中心にして、歴代の藩主が愛した庭園
世界へ羽ばたいた、医学界の偉人。梅毒や黄熱病などの研究で世界的に活躍した細菌学者です。千円札に描かれたことでも有名になった。
女性の教養と福祉向上に人生を捧げた会津人
野口英世が医学を志すきっかけ
小泉八雲に「カミサマ」と呼ばれた人格者
会津の幼児教育・女子教育に力を尽くした女性
会津における教育の始まりとなった学問所
福島に生まれ、新しい日本の礎となった大学者
八重の心情を感じ取れる直筆の書
会津藩士の「武士道」を根付かせた、文武両教科を教授する総合学校