八重を育てた「家族」。新島八重を育てた母、砲術を教えた兄、そして夫など、八重とその家族たちを紹介します。

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山本覚馬

己の知恵と心眼を以って、未来を見据えた盲目の偉人。八重が憧れ続けた兄

山本覚馬の写真とサイン

なんだか覚馬が目の前にいたら、全て見透かされてしまいそうです。(写真提供/同志社大学)

今となっては懐かしい歌を、思いかけず口ずさむ。「よく知っているね!」と年の離れた人に言われれば、「母が好きなもので・・・」と決まり文句のように言葉が続く。趣味の話を友人とした際に「きっかけは?」と訊かれれば、これもまた「姉が元々始めまして・・・」と。
同じ屋根の下、寝食を共にする人の影響力というのは計り知れない。血の繋がりがあるならばなおさらである。改めてこんなことを思い返したのは、八重の兄・山本覚馬の存在を知り、その人物像に触れたからかもしれない。この偉大な兄がいなかったら、八重の生涯は全く違うものになっていた。

覚馬は会津藩砲術指南役の父・権八と母・佐久の長男として生まれる。
9歳で日新館に入学した後はその才能をいかんなく発揮し、常に成績優秀者だった。まさにエリートの中のエリートで、24歳の時には馬・槍・刀の奥儀を極めた。
日新館の記事(精神:学問)にも記載されているが、日新館では「遊学」という制度がある。留学のようなもので、素読所(小学)、講釈所(大学)を経てなお成績が優秀であった者が江戸や他藩への遊学を許される。もちろん覚馬はこのチャンスを物にし、華の江戸へ遊学することになった。

根っからの会津藩士だった覚馬は強さを求め武術を磨こうとするが、兵法書を読まなければならないということもあり、学問にも精を出すことに。覚馬にとって書物による勉強は、当初あくまで武芸をきわめるための手段だった。
しかし場所は江戸。覚馬は学ぶことによって佐久間象山や勝海舟、そのほか各藩の優秀な人材に接触していく。すると、それまで会津しか見えていなかった覚馬だったが、国家という意識、世界のなかの日本という意識に目覚め始めるのだった。

ゆかりの地:日新館の写真

日新館の蘭学所は覚馬が開設しました。

会津に帰ってくると同時に藩校日新館の教授に任命され、蘭学所を日新館内に開設。軍事取調兼大砲取頭になるという大出世をし、さらには京都在勤を命じられる。そして間もなく、禁門の変が勃発。蛤門(はまぐりもん)を守備していた覚馬は、門を開いて突進し大激戦を展開。会津藩主・松平容保がその戦功を賞し公用人に任じたことにより幕府や諸藩の名士らと関わる機会に恵まれ、その後の活躍に繋がる。

まさに絶好調の覚馬だったが、この頃から急に目を患うようになり、ひっそり暮らし始めていた。しかし鳥羽・伏見の戦いが起きてしまい、薩摩藩邸に捕らえられる。
薩摩と会津は敵・・・捕らえられることは即ち、死を意味する。目がほぼ見えない状態で、知らない場所に閉じ込められ、普通の人間なら不安に襲われ何もできなくなるだろう境遇におかれた覚馬は―それでも未来に光を見ていた。この時、獄中起草した「管見(かんけん)」と題する政治・経済・教育・衛生・衣食住・貿易諸般にわたる経世論が薩摩藩の用人の眼にとまり、幽閉されている身ながら厚遇され・・・なんと釈放される!
「管見」は明治政府にも認められ、京都の施政を任せられることになった。日本で最初の小学校・科学研究所・勧業大博覧会などは覚馬の力によるもの。

またもや覚馬は絶好調な時期をむかえていたが、目に続いて今度は足を患い不自由になる。そんな時、新島襄に出会い、その教育に対する情熱に賛同。買い取っていた旧薩摩藩邸敷地を破格の値段で譲渡し、同志社大学設立に尽力する。その後も様々な役職を任され、京都の近代化に努め続けた覚馬は、1892(明治25)年に65歳で人生を終えた。

覚馬の65年間は、八重を動かし・会津を動かし・京都を動かし・日本を動かした。自身の眼や足が不自由になり行動が制限されようとも、彼の考えは常に未来を見据え、留まることがなかった。戊辰戦争で散った仲間達の死を無駄にしないためにも、日本の未来をより良くしなくてはならない―そんな想いもあったのだろう。
この魅力的な兄を見て育ったからこそ、八重も魅力溢れる女性に成長した。そういえば・・・八重の初婚の相手・川崎尚之助も再婚相手・新島襄も知識人である。それを考えると、もしかしたら八重の理想の男性像は覚馬だったのかもしれない。

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